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愛情とご縁と宗教と、感情と言葉と学び ~挑戦の2012年で少しだけ悟ったこと~

Posted by クリエイティブデザイナー on 10.2012 未分類 0 comments 0 trackback
すっかり秋めいてきた。
美しい紅葉が僕を感傷的な気分にさせるのは、自分が暗にそれを望んでいるからなのか。
1年を総括するには時期が早いかもしれないが、この1年の歩んできた道のりをスッと見返すことができたので無性に書きたい気分になった。

2012年は挑戦の1年だった。
それは僕の思考を大きく揺さぶらせ、判断を鈍らした。
たくさんのものを見聞きした。多くを感じることができた。
そして大切なものを得る代わりに、大切なものを失った。
良き1年だったとは言い難い、少なくとも今は。
良き1年だったと言えるようになるのは、これからの自分の生き方次第なんだろう。

挑戦によって、世界が開けたと同時に悟りを開いた部分もある。
今日はその悟りについて徒然に書いてみたい。




そうだな、恋愛に喩えてみるとわかりやすいだろうか。いや母親と子の関係が良いだろうか。
今までの僕は、好き合っている男女が別れを選択するなんてことを納得することができなかった。
しかし、この世は子供の夢見る理想世界とは少し違うこともあるようだ。

--
大好きで結婚を考えてる彼がいます。
きっとこの先、彼以上に好きになる人には出会えないかもしれない。
人なつっこくて、優しくて、子ども好きで、あたしを誰よりも理解してくれていて…
そして彼はいつも、「お前の子どもは可愛いやろなぁ」「早く子どもほしいなぁ」と私に嬉しそうに言います。
だから別れなければなりません。
私には貴方が大好きな子どもを産んであげれないから…
--

好きな人の手を離さないのはただの「愛着」。
手を離してあげられるだけの「愛情」が僕にはあるか?
そんなことを幾度となく考えただろうか。

そういえばこんな話もある。

--
一休さんのお話しで、二人の母親が子供を取り合うというものがある。
突然財産持ちになった子供に、二人の母親が「自分が母親よ!」と名乗り出る話だ。
どちらが本物の母親かを調べるのに、一休さんは二人の女性に、
子供の手を引っ張り合って「取り合って取れた方を本当の母親とする」と言う。
そして二人の女性は、子供を引っ張り合うのだが、
子供が「痛い!」と言ったら、一人の女性はパッと手を離してしまう。
残った女性は「やった!やった!私が母親よ!」と喜ぶのだが、
一休さんは、手を離した方が子供の母親だと判断した。
つまり「子供が痛いと言っているのに、手を引っ張り続けれらるなんて母親じゃ無い」
という頓智話なのだ。
--

本当の母親は、我が子を愛しているから、本当に大切に想っているからこそ、
痛がる子の手を引っ張り続ける事ができなかった。
本当の愛情とはこんなにも切なくて良いのだろうか?

こんな話をクリスチャンの女性に僕は語っていると、
彼女はうーんとうなった後で、キリスト教の神様と人間とのお話を聞かせてくれた(記憶力が定かでないため以下はどこか間違えているに違いない)。

--
本来は、神様と人間はとても仲が良いものらしい。
しかし、ある時人間は自由意志のため、神様の愛情をそっちのけに神様のもとを離れていったのだそう。
その時、神様は先の女性や母親と同じように、辛い気持ちを抑えて人間を手放してしまう。
(その関係を修復するために犠牲になったのがイエス・キリストで、後に天使になったらしい)
その後、人間は神様のもとに帰ってくることになった。
(愚かな)人間であれば、自分を一度裏切り去った者を受け入れることは難しいのかもしれないが、
この時、神様はそっと人間を包み込み、あるがままを受け入れたのだそうだ。
--

クリスチャンの彼女は、愛情とは裏切りをも許して包み込むことではないかと主張した。
なるほどと、僕の心には綺麗に腑に落ちた。



しかし残念なことに、人間には心がある。感情がある。
この事実を実感するのに24年間もかかった僕は愚かな人間の一人なのだろうか。
ある小さな感情が他の大きな感情をコントロールすることができなくなることがある。
感情にどうしても頭と身体が付いていかなくなることだってある。
正常になるためには、感情を押し殺す"努力"(なんと虚しい努力だろうか)をしなくてはいけないことがある。
なんと人間とは弱く悲しい生き物なのだろうか。
そう自問自答する毎日を過ごす僕がいる。

人間が生きる限りにおいて、必ず宗教は存在する。
それは日本においても例外でないことを理解する。
好き同士であるにも関わらず、別れを愛情で受け入れなければならない男女を、
キリスト教では神様が与えた運命であり、二人にとって幸せになる一歩であると信じ込むのだそうだ。
普段は無宗教であると考える(私もその一人)多くの日本人は、「縁」という言葉を用いて辛い運命を受け入れる。
この人とはご縁が無かった、この企業様とはご縁が無かった。
そんな言葉を多用したくはないが、使わざるを得ない場面が出てくる可能性はある。

不幸は突然訪れる。
幸せが崩れ落ちるのは一瞬であることも初めて味わった1年だった。
信頼を築くには多くの時間がかかるが、信頼が崩れるのは「一言」で足りる。
そう父に教えてもらったのはいつだったか。
それを理解するのに24年間もかかった僕は愚か者だし、
その「一言」が、悪気もなく自然と出てきた普通の言葉である場合もあることを思い知らされた僕は、言葉を発することに憶病になった。
どれだけ悩み、どれだけ苦しみ、どれだけ反省しても、どれほどこれから注意しても、同じ過ちが繰り返される可能性があるかもしれないと悟る僕にとっては、
「人間関係の難しさ」という大人たちが使い古している言葉の恐怖にただただ怯える。
これも社会に踏み出す、真の大人になるための一歩なのだろうか。試練なのだろうか。


インドでは、貧困の凄まじさを感じることで相対的に自分を幸せと認識したり、教育制度の欠陥から不自由にしか生きることができない人々の虚しさを味わった。
アメリカでは、格差から生まれた麻薬中毒者たちの悲痛な姿を見て、なんと日本は平和なのだろうと再認識をした。

インドの子供たちの目の輝きと凄まじい人口を目の当たりにして、グローバルなパワーシフトが着実に進んでいることを身に染みて味わった。
シリコンバレーのスタートアップ環境と優秀な頭脳が集結するパワーを実感して、日本が崩れ落ちていく未来がまぶたの裏に浮かんだ。


そんな響きの良い学びもあったけれども、この1年の僕にとっての最大の学びは、
ご縁でしか済ませられない人生の儚さと、何気ない普通の一言による誤解から信頼関係が崩れ落ちる恐ろしさを知ったことかもしれない。
逆行を許さない時の流れに身を任せて、もう元に戻らない反省をそっと手放し、ただ未来のみを見つめて今をがむしゃらに生きるしかないと自分を信じ込ませながら、
ジリジリと痛む心と共に、長く苦しい毎日と向き合う今の僕は、幸せであるはずの未来の僕から見ると良い経験だったと言えるのだろうか?

ただただ自分の心を酒と言葉で騙しながら、時には感傷的になる素直な気持ちを大切にしながら、鏡の僕に向かって「まだ大丈夫そうだ、今日も頑張ろう」と笑ってみせては落ちに落ち込む。
そんな僕の心を時間が癒してくれることをひたすら待ち続ける。そう願う。
もう大丈夫みたい。今日は大丈夫だった。
明日以降も大丈夫だと信じたい。
そう、明るく生きよう!
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